2011年2月6日日曜日

CrashDragon!=Episode3


EP3・道

 


 
「武器が使えなくなった生徒がいる?」
「はい、A組の彩本愛です。……先程の戦闘を最後に、全く発動できないとか」
「戦闘相手は?」
「D組の天河龍助です。今まで武器が発動できないエラーに悩まされていたのですが、パートナーの持つ能力に救われたみたいで。初めて発動を行っておりました。そして、他の生徒が言うには……」
「何だい」
「……その攻撃は彩本の身体を一切傷つけることなく、武器のみを破壊したとか」
「ほう。彼は今どうしている?」
「戦闘終了と同時に気絶し、データからリアルへ強制転送されました。現在は校内病室にて眠っています」
「気絶?」
「はい。本当に突然で……おそらくは、彼の武器発動には相当なエネルギーを必要とするのだと思われます。ピンポイントで、その部分だけを攻撃するなんて普通出来ませんから。大抵使用者も傷つきます。その事態を想定して、痛覚制御装置が存在するワケですし……」
「何を隠しているんだい」
「……いえ、実は――」

 


 
俺のベッドにもたれすやすやと眠るガクの頭をそっと撫でる。安らかな寝息を立てるその姿はまるで可愛らしい猫みたいだ。
俺が目を覚ました際持った疑問は三つあった。
まず、何故病室にいるのか。次に何故ガクがここで眠っているのか。そして――何故、背中がずきずき痛むのか。
その質問全てを、少し前にやってきた保健担当の先生が教えてくれた。
まず病室にいる理由は、俺が試合終了直後にぶっ倒れてしまったから。おそらくセーフティシステムなるものが発動して強制ログアウトされたのだろう。そのまま病室へ直行。
ガクは俺が病室で眠り続けている時、ずっと傍にいてくれたらしい。ガクらしいといえばそうなんだけど。
そして最後の疑問なのだが……

 
「全治三週間って……冗談はよして下さいよ、センセイ。俺はリアルで怪我したワケじゃないんですよ? 戦闘テストです。ありえないっすよ」
「そんなこといったってさぁ。君、自分が一番分かってるでしょうよ。背中すっごく痛いでしょ。気を抜いたら血が噴き出して思い切り張り裂けちゃいそうです―、みたいな。こうずっきんずっきんくるっていうか、根性なしのひょろい奴だったら喋れないくらい痛いはずだよー」
「う、うぐぐ……」
「ほら反論できない。しかも君、どんだけ寝てたと思ってる?」
「え、えっと……五時間くらいですか?」
「丸二日だよ」
「へ!? ……いたた」
「あんまりオーバーリアクションすると傷開くよ。――武器の発動に消費したエネルギーとか怪我とか色々な要因があるんだろうけど、こんな患者は初めてだよ、全く。欠席手続きとか面倒だったんだからさ。パートナー君にも看病とか色んなこと頼んじゃってたから、後でお礼言っておきなよ」
「……言われなくても、言いますって」
「それにしても、彼……可愛いね」
「出てけ」

 
というやり取りが昼にこの病室内で行われたのだが。夕方の今になっても結局のところ根本的なことはさっぱり分からなかった。考えても考えても謎だらけなのだ。
ありえないことが起きている。
いや、もしもそうなら。俺の武器が発動したことも『ありえない』といえるのかもしれない。今までどんなことをしたってクラッシュしてた俺の武器が、初めて発動したのだ。
怪我という名の代償があったにせよ、少し嬉しい。これも全部ガクのお陰だよなあ。
――勝利者は幸せを奪い去る残酷な者なの。
「っ……!」
唐突に、頭に激痛が走る。
今、誰か……女の声が聞こえたような……。そういえば、気絶する前にも声がした。一体誰の声だ?
考えようとすると頭が割れそうな幻覚に陥る。思い出してはならない。誰かがそう言っている気がして。
でも酷くむず痒くて、ついうっかり俺は叫んでしまっていた。
「誰だよ、お前!」
気付いた時には既に遅く、背中を鋭い痛みが駆け巡る。
巻かれた包帯の感覚がおかしくなる。生ぬるい、嫌な感じ。間違いない、傷が開いたんだろう。
その痛みの凄まじさに声を上げそうになってしまうが必死に抑える。自分自身で身体を抱え、痛みに震えるこの身をどうにか落ち着かせようと試みるも無駄な抵抗だった。今はただ気が遠くなるような激痛に、歯を食いしばって耐えるしかなかった。
俺の耳に、淡い声が届いた。
「りゅうすけ……どの……?」
ベッドの上で眠っていたガクが顔を上げ、こちらを見ている。まだ寝ぼけているのか瞳は半開きだ。
自分の現状況を思い出し慌てる。ガクは俺の看病に協力し、ずっと傍にいてくれたのだ。これ以上迷惑を掛けるワケにはいかない。
俺は右手をゆっくりと伸ばし、彼の頭にそっと乗せて撫でてやる。
「俺はもう大丈夫だ」
ぎこちなく笑って、腹の底から声を発する。微かに揺らいでしまったが悟られることはないだろう。
果たして、ガクはしばらく目をしばたたかせていたが、そっと目を細めるとベッドに顔を伏せて言った。
「……無事でよかったです」
されるがままに撫でられながら発するその声は少し嬉しそうだった。俺は痛みを忘れて、自然な笑顔を浮かべることが出来た。
「ああ。……ありがとな、ガク」
そっと呟く。礼を言うのは何だか照れくさい。
何故か顔が火照ってしまい、それを紛らわせるようにしてガクの頭を撫でてやっていると、彼はまたすやすやと寝息を立て始めた。やっぱりコイツ、猫か。
それにしても、三週間も入院するなんて面倒極まりないな……途中で抜け出してやろうかなんて考えていると、ベッドの隣に置かれていたタブレットPCから効果音が流れる。メール受信を知らせる音だ。
俺はどうにか手を伸ばしてPCを取り、画面をクリックする。瞬時に宛名と件名が表示されたので目を通す。
『デバッカー抜擢のお知らせ』
無表情でひょいとPCを放り投げてしまった。がしゃーんと歪な音がしたがそれどころではない。
デバッカーというのは、いわゆる『ウイルスをぶっ倒すメンバー』だ。確か二、三年になれば自動的になれるというのだが、俺はまごうことなき一年だ。
安らかに眠る少年一名。――悪いがこの眠り、妨げさせてもらうぞ。
少し考えて、身体を折り曲げ彼の耳元へそっと囁く。
「起きろ、起きないと俺死ぬぞ」
「はっ!」
「ごふぉ」
本当に起きた。というかガクが飛び起きて跳ねあがった頭が、は、鼻に……やべ涙出てきた。鼻血出てないよな?
「な、なんたること。某、いつからここで眠っていたのでしょう」
状況を把握しようとしているのか慌てて辺りを見回すガク。
あれ、さっき起きただろお前。まさかあの状況で寝てたのか? それとも寝ぼけていたのか……あ、だから撫でられてもおとなしくしていたのか。なるほど理解。ということは俺が言った礼もちゃんと聞いてなかったんかい。複雑な気分になる。
「いや、分からん。俺が目を覚ました時にはここで寝てたぞ」
「え……」
無表情な少年の顔が青ざめたように見えた。
「いやいやいや! そんな顔するなって、元よりぶっ倒れた俺が悪いんだし、迷惑かけちゃったし」
「しししかしながら、某なんたること……ご無礼お許しくださいませ」
「何故謝るし……」
ということはワンモア礼。
「あ、あのガク」
「はいっ何でございましょうか何かございましたら遠慮なく某におっしゃって下さいませどんなことでも叶えて差し上げましょう」
お前は神か何かなのか。
がちがちとしている目の前の少年を見ると余計に礼が言いづらい。
でも、言わなきゃ。
「えとその、あー……ありが」
「蟻がどうかしましたか、もしや侵入いたしましたか!? まだまだ害虫は存在するのですねならば某身を持って駆除して参りますいざ敵は中庭にあり」
「違うっつの!」
と叫んだにもかかわらずガクは表情のない声で叫び決意を背負った様子で走っていってしまった。ダメだあいつ早く何とかしないと、と心の中でたそがれてみる。
白い病室。
あいつがいなくなった途端余計に真っ白になる。何かが足りない、そんな気がしてしまう。
多分、これが寂しいという感情。一人の時には感じなかった、感じることのできなかった切ないもの。必要ではないけれど、感じられるならば自分は一人じゃないということを示している。
俺は一人じゃなくなったのだろうか。それとも、そう思い込んでいるだけなのか。
忘れていた痛みも蘇ってきて、つい顔をしかめる。これだけの激痛をやり過ごせていたことが驚きだ。
分かったのは俺の中でガクの存在は予想以上に大きいってことだ。まだ出会って一週間も経ってないのに。
「つか相手は男だぞ馬鹿何考えてんだ俺きめぇ! いくら女嫌いだからってそういうんじゃねぇぞ俺は」
勝手に叫んで勝手に焦る俺すごくイタイ子。
――一人が嫌だなんて微塵にも思わなかった自分はどこへ消えちまったんだ。
弱くなった自分に苦笑しつつ、痛みを感覚の隅に押しやって地面に落としてしまったPCをどうにか拾い上げる。端が微妙につぶれたくらいで機能には問題が生じていないらしい。改めてメールを開き、内容を読む。
『あなたは先日の戦闘テストで素晴らしい結果を叩きだされました。よって上級生で構成されるデバッカーチームに強制的に選抜されました。おめでとうございます。また、更なる技術向上の為これからは女子寮のフロア』
あ、軽快な音を立てて真っ二つにPCが折れた。
これはどう考えてもどこから見ても事故だな完全事故。完全犯罪的な。PCは犠牲になったのだ。よしこれで俺はメールを見てなかったことになるぜ何も問題は見当たらない無問題すぎて困るくらいだ結果オーライ。
「ねぇねぇ……彼よん、新しいデバッカー」
「あれってクラッシュドラゴンこと龍助君じゃん。何でアイツなの」
「アデフィーたんしらない? しらない?」
「知らないわよ」
「あらん、もう噂になってるはずよん。確か一年の戦闘テストで……」
………………。覗きは犯罪です。
ほんのちょっぴり開いた扉の隙間から、赤二つ青二つ黄色二つ合計六つの目が見える。俺がそれに対して思い切り不機嫌そうな顔をしてやると、それらは一瞬で影へ引っ込んだ。かと思えば扉が思い切り開かれる。
「ちょ、ソレラっ! 何してんのよ」
「いーのいーの! こんにちはははーっ!」
驚く間もなく、気が付けば俺の身体に何やら白い髪を二つに縛った人間が愛おしそうにぎゅうと抱きついているではないか……え?
ついんてーる。長い髪の毛。常識的に考えて。男じゃない。つまり。
「うわあああああああくぁwせdrftgyふじこlp」
「ぶるぶるしてる―! うわー、かわいいー! あったかいー!」
「ソレラやめなさい! 戻ってきなさい!」
「でーもー、かわいいのー。ソレラ、かわいいのだいすきー」
「可愛いかどうかはともかく、早く戻ってきなさいよぉ。迷惑掛けてどうするのよん」
「う、うー。でもー」
「ほら、やめなさい。それ以上続けると強引に引っ剥がすわよ」
「ううう、なんだかアデフィーたんコワい……やさしくない……わかったよう、いまはやめるー」
「今じゃなくてこれからずっとね。君、大丈夫? ……うわっ、泡吹いてる!」
「な、ナースコールどこよん! これ、これかしらん?」
「ぎゅー」
「だからやめなさい!」
「……むにゃ……巷が騒がしいでございますな……客人様でござりますか……?」
「えっ、お化け!?」
「……霊ではございませぬ……ぐー」
「いやーん! 誰よこの子―!」
「ちょっと皆さんうるさいです! 他の患者様に迷惑ですよ……って、デバッカーチームの方々じゃないですか! 一体どうしたのです?」
……皆帰ってくれ……。

 


 
「理由は彼自身にも分からないそうですが……とにかくそういうことです。なので、会話は適度な間隔を取ったところからでお願い致します」
「龍助殿は悪くないのです。どうか宜しくお願いします」
三人の女に対して、担当の看護師が俺の『持病』について簡単に説明する。ついでに目覚めたガクが頭を下げて頼んでくれる。いや、そんなことするなよ。簡単に頭を下げるなよ。
それにしても、珍しいこともあるものだ。俺の名前を知っているにも関わらず俺の性癖を知らないとは。
「カワイコちゃんのお願いなら仕方ないわねぇ。で、女アレルギー? 変な病気があるものねん。つまり、この子はコイ焦がれることも出来ないってことなの? カワイイ子なのに残念ねぇ。普通ならモテそうなのに」
艶めかしい喋り方と言うんだろうかコレは。……その異様な口調の女性は、三人の中で一番年上のように見える。青色の目、隻眼の持ち主。紫に輝く長髪と大人っぽい顔立ち。露出度の高い服を纏う、俗っぽく言えば『女王様』みたいな感じの雰囲気が漂っている。
「まあいいけどねぇ。アタシの名前はザロットよ。これから宜しく、ってことになるのかしらん?」
「これから……とは、一体どういうことなのでしょう」
「読んでないのですか? お知らせがそちらに行っているはずなのですが」
丁寧な口調で話す少女。確かアデフィーと呼ばれていた女だ。一本の三つ編みでまとめられた黒の長髪と、今はすっかり廃れてしまった『民族衣装』なる服を着ている。鼻筋の通った端麗な顔立ちと金色の鋭い目は、見る者に何故だか少しキツめの印象を与える。
「お知らせ?」
まさか、それってあのメールの……?
「龍助殿、何かご存じでございますか? 某状況が全く把握しきれておらず……相棒失格でございます」
「い、いや、俺も状況はよく分かんねえし」
「そうでございますか……もしや、PCの方に何か連絡が」
ガクが腰のケースに手を掛けた。
ヤバイ。俺は瞬間的に起き上がりその手をがっしと掴む。
「……龍助殿?」
「お、俺が見た。見たから何もなかったから大丈夫だ問題ない何も問題ないぞ何も一通もメールは来ていなかった大丈夫だから気にするんじゃないぞ疑わしいところなんてなにもない俺を信じろ信じてくれ頼むお願いだそれを見るな」
「見た……? 某のPCを、ですか」
「ああそうだ見たメッセージは何もなかったぞ! 大丈夫だ! だからきっとこの女三人組が来たのは何かの間違いであって俺達は全くの無関係だ」
超高速でまくしたてる。こんなに舌が回るのか、俺。案外だ。
……何でかよく分からないが、ガクが俺のことをじっと見ている。向けられた双眸は微かに揺れている。まるで、俺に何かを訴えているかのように。
「こほんっ。アタシ、BLは趣味じゃないのよね」
「ぶっ!?」
アデフィーの言葉で我に返れば、俺達のことを変な目で見る女四人。確かに男が男の腕を握って双方硬直するという光景は傍から見れば異様すぎるが……つーか何で看護師はここにいるんだ。勤務中だろ。暇か、暇なのか。
俺が慌てて手を離すと、アデフィーが俺を蔑むように眺めながら呟く。
「イチャつくならここじゃなくてベッドでやって頂戴」
「誤解だぁっ! 俺だってそんな趣味はねえよ!」
「でも、女嫌いっていうのが怪しいのよねん」
「怪しくねえ!」
叫ぶ度に背中の傷が痛む。これ絶対悪化してる。超痛い。
「きんだんのかんけいー?」
「だからそんなんじゃねえっつの!」
一番年下に見える白い髪ツインテール赤眼少女、確か名前はソレラとかいったか。だが禁断の関係なんて言葉を覚えている奴は純真無垢なガキじゃないぞ。背は小さいし顔立ちも幼いから小学生かと思ったが、見た目だけか。
突っ込みに疲れているところに、淡々としたガクの声が響く。
「あなたは先日の戦闘テストで素晴らしい結果を叩きだされました。よって上級生で構成されるデバッカーチームに強制的に選抜されました。おめでとうございます。また、更なる技術向上の為これからは女子寮のフロアで生活してもらいます。また、訓練では先輩にあたる二年生チームと組んでもらいます……」
うわあああああああ! 俺が目を離している隙にやられた! ガクは俺が止めたにもかかわらず腰から取り出したPC画面を朗読し続ける。終わった。
「何よ、連絡行ってるじゃないのん」
ザロットは俺が青ざめる様を楽しそうに見つめる。――人の気も知らないで。俺がこの性癖を持つ為にどれだけ苦労を強いられたか分かってんのかコイツは。あ、何だか吐きそう。ダメだ自分を強く持て、頑張れ俺。もう少しの辛抱だ。
「本当に女嫌いなのね……でも、上の決定だから仕方ないのよ」
上。つまりそれは学園の創設者達の決定だ。
噂では聞いたことがある。優れた能力を持つ下級生を選抜し上級生のみで組まれたチームに入れるという特別なシステム。だが学園伝説の一種とされ、誰も信じようとはしていなかったのだが……身を持ってそれを証明することになろうとは。
「ソレラがいるよー、だいじょうぶー! こわくないー」
髪を振り乱しながら、ニコニコ笑う色白の少女。しかし、その紅を宿した視線は俺を見てはいなかった。
そんな彼女の頭を撫でながら、アデフィーは微かな笑顔を浮かべる。その笑顔はとても悲しそうに見えた。
ふっとその表情を消すと、彼女はいつものキツめな雰囲気を漂わせていた。さっきまでそこにいたのは一体誰だったのか、そう思わせるほど別人に思えた。
「仕方ないわね。戦闘訓練だけなら私達以外の女子と会う必要はないから、授業認欠許可を貰ってみるわ」
俺は慌てて待ったを掛ける。勝手に話を進められても困惑するだけだ。ジェスチャーを交えながら必死に喋る。
「ガクはともかく……その、何で俺なんですか。俺なんてただの落ちこぼれだし、ガクがいなきゃ武器だってロクに発動させられないですし」
「でもでもー、そのがっくんがいればキミはサイキョー! カッコカワイイー!」
がっくん!? と突っ込みが喉まで出かかったがこれ以上は身体に負担が掛かる。このソレラという子は全く掴みどころがない。扱いが難しいというか、交流が難しいというか……。するとアデフィーが彼女の言葉を補う形で付け加える。
「ごめんなさい。実は、今デバッカーの人員がとても足りなくて。少しでも実力があると判断された生徒はこっちに強制的に送られることになってるのよ」
デバッカーが足りない? それはおかしな話だ。
この学園ではほとんどの教養事項は一年のうちに学び終わってしまう。二年生からは戦闘訓練や技術を学ぶ授業を交えつつ、少しずつデバッカーに抜擢されていくのだ。最終的には全員が三年に進級する頃には皆デバッカーになっている。
つまり、人が足りないなんてありえないのだ。普通なら。
「……退学者が増えたんですか?」
俺の問いをカラカラと笑いながら受け流すザロット。
「そんなワケないわよん。この学園に入るだけで一苦労なのに、どうして退学する必要があるのよ」
確かにそれもそうだ。ならば、何故。
「噂には聞いていましたが――」
唐突にガクが囁き、皆が彼に注目する。
「データを喰うウイルス、ですか」
「データを喰う?」
オウム返しにしてしまう。そんなウイルス聞いたことがない。
元々ウイルスというのはデータを破壊する為に存在している。それだけで脅威ではあるものの、破壊された場合ならば少なからずそのデータ破片が残る為、そこから再生・復元が可能だ。
だが、喰うということは……。
「データの破片を残さず対象を食し、自らの力とする。つまり餌食となったデータは復元不可能となります。てっきり伝説だと思っていましたが……」
「伝説なんかじゃないわ」
アデフィーは目を伏せて、キツい口調できっぱりと断言した。まるで何か強い確信があるかのように。その言葉はとても鋭利で冷たかった。
ゴクリとつばを飲み込む。あまりにリアルな話だ。嘘だなんて笑い飛ばせない雰囲気に恐怖する。
無意識のうちに、俺は不吉なことを訊いていた。
「あの……万が一そのウイルスに遭遇して、自分のアバターデータを喰われたらどうなるんですか」
「死ぬわ」
再びの断言。背筋がざわりとして吐き気が込み上げる。
そんな俺には気付かずに、彼女は感情を込めず淡々と残酷な現実を述べていく。
「……正しくは、喰われた部位が損傷、つまり死ぬの。例えば、バーチャルで腕を喰われればリアルでの腕が腐り落ちる。足も同じ。顔だって同じよ」
まるで全てを見てきたようなその口調が怖くて仕方がなかった。そして、恐怖と好奇心が俺を支配しているのに気付く。これ以上は更なる嫌悪と恐怖を生むだけなのに、質問を止めることが出来なかった。
「顔、ってどういう……」
「そうよ、顔にある部位がおかしくなるの。例えるとするなら――」
彼女はチラリと、ソレラを見た。
「眼球をかじられて、目が見えなくなるとかね」
心臓が止まるかと思った。
俺を見ようとしていなかった、明後日の方向を向いている少女。首を傾げている健気な少女は俺を見なかったのではなく、見ることが出来なかったのだ。
呆然とする俺と、その隣に無言で立つガク。
アデフィーがちらりとザロットに目配せをする。と、ザロットは苦笑いをしつつそっとソレラの肩に手を乗せて優しく話しかけた。
「ソレラ、ちょっとお散歩行きましょうよぉ」
「えー、ソレラもっとここにいたいー、かえってもひまだしつまんない!」
「また来ましょうよん。とりあえず今日は撤退しましょ。あなたの大好きな浅漬けキュウリ買ってあげるから」
「ほんとー? やったー! わかった、きょうはかえるー! またね、ばいばーい!」
きゃっきゃと楽しそうにはしゃぐ少女を連れる大人びた女性。まるでその光景は仲がよさげな姉妹のようで。彼女らはそっと俺の病室を後にした。
終始、二人の目線が合うことはなかった。

 


 
「……見れば分かると思うけど、ソレラの精神は幼児化してるの」
どこか遠くを見るようにアデフィーは話し始める。まるで昔の風景を懐かしむような、そんな顔をしていた。
「本当は、チームを明るくしてくれるマスコットみたいな娘だった。とってもいい子だったの」
そう言われて疑う余地はない。確かに人形みたいな可愛らしい容姿をしているし、明るいしよく目立つ。きっとチームに欠かせない存在なんじゃないかなと、少なくとも俺はそう感じた。
それを率直に伝えると、黒髪の美少女は嬉しそうに微笑んだ。チームの仲間を褒められて嬉しくない人なんていないわと呟いて、しかしふっと笑みを消したかと思うと低い声で息を吐くようにこんなことを言った。
「けど、今のソレラはもうそんなんじゃない」
その後は唇を噛んで口をつぐみ、続けようとしなかった。続けることが出来なかった。長いまつ毛が彼女の揺れた瞳をそっと隠した。
どうしようもない虚無感に襲われて、俺は口を閉ざしているしかなかった。
かつては欠かせない存在だった一人の少女。今でもその事実に変わりはないのだろう。だが、その少女は深い傷を負い、かつてあったはずの自らを失った、もしくは過去の自分を守ろうとして新しい自分を造ってしまっていた。
激痛、恐怖、嫌悪。拒絶、悲哀。タスケテホシイキモチ。
少女ソレラを変えた負の感情、感覚。
心痛、悲哀、恐怖、無力感、虚無感、必要性。タスケタイキモチ。
目の前で仲間が喰われた。それを見た仲間の感情、感覚。
決して噛み合うことが許されなかった、運命を違えた永遠のスレチガイ。まるで、ソレラとザロットの目線が永久に合うことを許されないのと同じように。
目の前、5m先にいる少女から全てを察することが出来てしまう自分が憎くて仕方がなかった。
――『かつて仲間であった』少女から溢れ出る負の感情に呑まれそうになる。
アデフィーは沈黙を破った。それが更に自分を追い詰める行為だということを知っているかのようにして、言葉を紡ぐ。
「……奴らにもフェティシズムというものがあるらしくて。例えば人間データの足ばかりを引き千切って持ち去ることや、髪の毛データを全て剥ぎ取ってしまうこと……眼球をまるで果実みたいにかじることとかに快感を覚える奴とか、ね」
ずたずたになってしまった俺の心が更に傷つけられようとしていた。しかしそれさえも少女達が持つ痛みの足元にさえ届くことはない。途切れそうな意識を保ちながらどうにか隣を見ると、ガクは無表情のまま頭を僅かに垂れていた。その漆黒の瞳は水っぽく反射していた。
「相当ショックだったんだと思うわ。それで、ストレスで髪の毛の色素が抜け落ちて真っ白になっちゃったの。あの子よくアルビノに間違えられるけれどそんなんじゃないの。あの目の紅や白髪はウイルスに『喰われた』証拠みたいなものなのよ」
からからと笑った少女の目尻から細い光が零れ落ちた。
「で、私はあの子を助けることが出来なかった、最悪の人間」
残酷な自虐的言葉が病室に響いた途端、軽くも深い打撃音が聞こえた。
少女は目をまん丸に見開いて、叩かれた左頬を抑えることもせずつっ立っていた。開かれた目から溜まりきっていた涙がぼろぼろと零れ落ちていく。
「不快です」
ガクは無表情のまま、少女に挙げた右手をぐっと握り締めた。
「自らが最悪の人間だと、そう自覚しているならば、こんなところで愚痴を言っていないで何か手を打つべきではないのですか」
「な……」
痛烈で残酷な一言だった。……俺は声も出せなかった。おとなしいガクがこんなことをするなんて思わなかったのだ。
アデフィーは怒りの表情を浮かべる。けれどそれは酷く辛そうだった。
またその表情はガクに対しての怒りではなく、無力な自分に対しての怒りの表情だと俺には取れた。
「それが出来たら苦労しないわよ……!目は勿論心だって一生治らない傷を負っているのよ、あの子は! 医者だって打つ手がないって言うし――そんなこと軽々しく言わないでよ、何も分からないくせに!」
「何を言っているのですかあなたは」
ガクは呆れ果てたみたいに言う。全てを知っているかのような、そんな風に。
「その傷を深くしているのはあなた方ですよ」
「――え?」
きょとんとする少女を前に、黒い少年は彼女から自然に目を逸らし、極めて丁寧な口調で言葉を綴る。
「紅眼の少女は今戦闘に参加していらっしゃるんですか」
デバッカーチームの使命、それはウイルスとの戦闘だ。それによって学園は成り立ち同時にチームのメンバーらの生活も成り立っている。
しかしそれは安全な仕事であったはずなのに、今やそうではない。
アデフィーは絶叫に近い形で喚くように言った。
「んなワケないじゃない! そんなこと危なくて出来ないわよ」
ガクはその言葉を予測していたかのような目で、ぐりんと首だけ回し少女を凝視する。少女は驚きのあまり短い悲鳴を上げるが、彼はそれすら気にしていないようだった。
「やはり」
すたすたと歩き、少女との距離を詰める。
「そんなことだろうと思いました。彼女、暇だとおっしゃっていたので」
続けてこんなことを言った。
「彼女を、戦いに参加させて下さい」
「な……」
ほんの一瞬の後、少女は泣きそうな顔で嘆き叫んだ。
「アンタふざけんじゃないわよ! 私はまた、またあの子を危険な目に遭わせなきゃいけないの!? 勝手にしゃしゃり出て来て、そんな無責任にふざけたことを言って何のつもりだって言うの」
「無力感の仕返しですか」
感情が爆発する少女とは裏腹に、恐ろしいくらい無表情な声が暴走したアデフィーの怒りをあっという間に鎮めてしまった。
彼女に残ったのは燃えた後の塵。ただの虚無。意味のない行動によって、ロクに面識もない人に八つ当たりしてしまった後悔と共に。
彼が発した『無力感』というワード。しかし、彼女の怒りはもう尽きてしまっていた。薪のないかまどに放たれた、無力感という名の炎は燃えることなくただ煙を散らして消えていった。
残りかすは少女の頬を涙となって伝う。
ガクは、少女にあるぞうきんのように汚れぼろぼろになった精神を察することはしなかった。
「あなた方は、ソレラさんのせいで感じた無力感を彼女に味わせるのが目的ですか?」
消えてしまった少女の感情の渦に、更に水を掛ける。どうしてそこまでするのか俺には分からなかった。
「そんなつもりは」
微かな弱々しい声は瞬時に掻き消される。
「例えそんなつもりがなかろうと、彼女はきっと傷ついている。自分が怪我をしたせいで皆に迷惑を掛け、挙句には戦いにすら参加できない。唯一の償いの手段をなくし、途方に暮れる。たった一人で苦しみ続けている。それが彼女に発症した状態の原因、そして彼女のなれの果て」
「――っ」
この時俺は、我慢できずに叫んでいた。
「ガク、もうやめろ!」
その瞬間、ガクはっとしたように全身を硬直させ肩を震わせる。彼は怯えた猫のように、ゆっくりとこちらを振り向いた。俺は後悔の念に駆られるがどうしようもなかった。
アデフィーは絶望的な表情を浮かべ、何も言わずに走り去った。流れた涙を拭うこともなく、病室を出ていった。
ガクはその背中を見送ることはせず、ただ無言で俺の言葉を待っていた。
この時俺がどんな顔をしていたのかは知らないけれど、ガクは酷く怖がっているように見えた。
数分間沈黙が続いた。どちらも何も言えずにそのままでいた。
「ごめん」
先に言葉を発したのは俺だった。その沈黙が嫌で嫌で仕方がなかったから。でも俺は一体何に対して謝っているのか、自分でも分からなかった。
俺はガクの言葉を待たず、こんなことを訊ねていた。
「何故、ここまで……必死になっていたんだ?」
ガクは何も言わない。ただ俺を見た。それだけだった。
無表情な言葉、無機質な声。傍から見れば無関心で冷たいものにしか聞こえないだろう。しかし俺にはそれらが全て必死なガクの訴えに聞こえてしまっていた。
その理由が知りたかった。
けれど、それを発した後に気付く。そんなことを知る権利、俺にはこれっぽっちも存在しないじゃないか。
「……ごめん、変なこと訊いた」
俺は苦笑いして、彼の目線から身体を逸らした。壁の方に向いて、真っ白なブランケットを顔まで被る。
ベッドが軋んで音を立てた。どうやら、ガクが腰掛けたようだった。
布団越しに、微かな熱を感じた。
「某には……使命があるのです」
突然そんなことを言いだすものだから、俺は反射的に起き上がってしまう。だが予期せぬことに、現在俺とガクとの距離は数cm程度。超至近距離で顔を合わせることとなってしまっていた。
俺は変な声を上げ、高速で再びベッドに潜り込む。ま、まつ毛長い……。
「……」
ガクは不思議そうにこちらを見ていたが、それを止めて小さな声で俺に訊ねた。
「龍助殿は……自分が犠牲を払えば、大切な人を救うことが出来るとしたらどう致しますか」
何も言えなかった。
俺の答えは勿論『犠牲を払う』。俺が生きるよりもその大切な奴を生かした方がいいと思うからだ。ある意味哀れで、独りよがりで……残された人の気持ちも考えないような自分勝手な選択だけれど。
けど、ガクは何故そんなことを俺に問う?
決まっている。彼は既に……何かに対して犠牲を払っているからだ。
ギシリとベッドが音を立て、布団から顔を出してみればガクは俺に覆い被さるようにして、俺の顔をじいと見つめていた。
「……龍助殿はお優しい方ですね」
全てを悟ったかのように、ガクは目を細めた。
「何を」
俺は訊ねていた。
「何を払った。自分の何を犠牲にしたんだ」
ガクは瞼を伏せ、姿勢を戻し俺から目を逸らして、消えかかる日の向こうを仰ぎ消えそうな声で呟いた。
「ある意味……全て。身体も精神も感情も感覚も何もかも」
息が詰まりそうになる。
咳込むが、変な息苦しさは取れない。拭えない。
――今、コイツは何て……。
「決して性的な意味ではなく」
付け加えるようにそんなことを言った。
「……ここまでの犠牲を払っても、某の願いは実現されているのか分かりません。所詮は人ひとりが『生まれ変わった』だけでございますから」
生まれ変わる。即ち転生。死亡後に信じられている迷信または真実。それとも、何か別の事柄を暗示しているのか。
「それって、どういう意味だ」
震える声でそう訊ねると、ガクはたったそれだけ答えた。
「簡単に説明すれば、『人間』から『AI』へと『生まれ変わった』。たったそれだけの話です」
え?
「某は元々人間でありました。しかし今は人間の皮を被ったAI、即ち別人です。人間の心を僅かに残しながらも表情と噛み合わず内部ですれ違いを起こし続ける不良品に過ぎません」
……え?
視界が鮮度を失っていくような、そんな感覚に囚われた。何かを話し続けるガクの言葉を捉えることが出来るほど、俺の気力は残っていなかった。

 
◆人間とAIについて

 
・人間は身体と精神が元々あるが、AIは人間の皮に人工知能を強制的に埋め込んだもの。身体と精神は別にあり、同調は超低確率でしか成功しない。いわば二つは別物。
・人間でいう感情表現だが、AIはそれを上手く出来ないことが多い。次第に学んでいけるもののそれが一生出来ない個体も存在する。
・人間とAIは区別される。大抵AIが差別される。
・人間とAIは異種であるため、それら同士の婚約や結婚は許されない。
・人間は戦闘で武器を使用するがAIには能力が備わる。稀にどちらも所持する個体が現れる。ただし本当に希少。
・人間とAI。犠牲にされるのならAIである。
・人間には人権があるがAIには飾り程度にしか存在しない。人ではないから。
・AIは人体実験によく利用される。
・人間は百年程度生き成長するが、AIは防腐剤が切れ自らの皮が腐るまでしか生きられない。成長もしない。防腐剤を交換することによって寿命を延ばせるが極めて高価なものであり、それにも限度がある。交換しない場合は五年程度で死に至る。ただし死ぬのは身体であって本体の精神は残るため、別の皮に移って生き続けることが出来る。
・人間は人間、AIは所詮データプログラムである。

 


 
「――殿、龍助殿」
朦朧とする頭が、どうにかガクの言葉を捉える。
俺は無意識のうちに、頭のどこかへ追いやっていたはずの、『人間とAIの相違点』について全て思い出してしまっていた。
AIは人間の皮、即ち『死体』を被るだけの存在。
腐敗は専用の薬が無ければ抑えられず、だいたい五年で死ぬ。
AIは、所詮データプログラム。
人間とは……別の生き物。
はじめてそれを耳にした瞬間、俺はどうしようもない無力感に苛まれた。それから逃げようとして必死に忘れた。その事柄を。
けれど、
「龍助殿……?」
ガクは変わらぬ顔で、しかし少し心配そうに俺を覗きこんでいる。無表情だけれどもあどけない健気な少年。どこからどう見ても普通の人間。
でも彼はデータで構成された人工知能なのだ。そうなることを自分で願った。不完全な人間から更に不完全なAIになることを望んだ。
自分の望みのためだけに。その大切な誰かを救うためだけに。
それはある意味果てしなく自己満足で利己主義でエゴイズムのように思える。同時にその願いはどうしても叶えたい大切なものだということも分かる。
だからって、どうして犠牲を払わなければいけないんだ。
「……間違ってるだろ、そんなの。残された奴はどんな気持ちになると思ってんだ」
俺だって同じ行動をしようと考えた。だが、よく考えればそれは間違っている。救われた大切な人は自らを救ってくれた人の境遇を知ったらば……どうなる?
矛盾が生じているのは分かっている。けれどそう言わずにいられなかったのだ。
今更言ったって何一つ変わりはしないのに。
「……一方的だったから」
微かに声のトーンが下がった。堅苦しさが消える。言葉を発する者は今までとまるで別人みたいに思えた。
その声には、今までに欠けていた『人間らしさ』が詰まっていた。酷く悲しげでどこか寂しげな、もう存在しない神への――手遅れの懺悔のような。
苦しげに呟くその表情に、『無』以外の物が宿っているのを俺は見てしまった。深い悲しみと苦しみと……ありとあらゆる負の感情全てが集まったような、見ている方も苦しくなるくらいに。
そして気付く。ガクに張り付いて離れない表情は紛れもなく、
「僕の一方的な好意であって、あの人は……それを受け入れようとはしなかった。結局最期まで」
もういない誰かを一心に愛する、『人間』の顔だった。
「腕の中」
ガクは泣いていた。
「少しずつ確実に冷えていく身体。僅かな熱さえも残さずに、何もかも奪い去っていく。幾ら抱きしめても意味がないんだ……さっきまではそこにあったものがなくなる。その違和感と向きあうのは、僕には不可能だった」
彼が紡ぐ言葉が示すのは、どうやっても逃げられない宿命。いつ来るかは人それぞれだが、遅かれ早かれ必ずやってくる運命。
自虐的に笑って、ガクは俺を仰いだ。
「僕は弱かったから、どうやっても違和感を拭えなかった。おかしいよね、笑っちゃうよね。一方的で返ってこない好意だって分かってるのに、それから別れることが出来なかったんだ。だから僕はこうするしかなかったんだ」
ガクは両手を天井にかざす。華奢で細すぎる綺麗な指が光って見える。それはあまりにも儚いように思えて、俺は嫌な感じがした。
「あの人はきっと、僕のことなんて覚えてないよ。僕が願ったことが本当になったとしても悩む必要はないし悲しむ必要もない。それでいいんだ」
絶えず涙を流す虚ろな瞳が俺を捉えて離してくれない。途方もないマイナスに呑まれそうになるが振り払えない。
「だとしたら」
無意識のうちに言葉が出てくる。迫るマイナスから逃げようとする俺の本能が発動させた一つの防衛手段。
「……それは他人だ」
ガクが目を見開いた。辛そうなその顔を見るのは嫌だった。
無表情を貫き通していたはずの、俺が知る今までのガクは一体どこへ行ってしまったのだろう。
「どうして……そんな、こと」
絶望的と言わんばかりに、一際暗い声でガクは呟いた。
俺はガクを悲しませるためにこんなことを言っているのではない。俺は自分のパートナーを助けてやりたいのだ。
だから……少し我慢しろよ。俺の伝えたいことが上手く伝わるなんて思ってないけどさ。
「ガクは何のためにそいつを助けた」
「何の、ため」
かたかたと震えながらどうにか喋る彼の姿はあまりにも貧弱で頼りなく、しかしどこか美しさを伴っていた。
「逢いたかったからだろ」
ガクは息を呑んだ。
もう一度言った。断言した。
「逢いたかったからだろ。顔を見たかった、声を掛けたかった、共にいたかった。たったそれだけだ。違うか」
ベッドに身体を預け、彼から目を逸らす。
「なのにガクのことを一切覚えてないとかないだろ。ガクが好きだったそいつは、例えガクに対して好意を抱いていなかったとしても『知っている』。知っているからこそ出来ることがほとんどじゃないのか」
記憶によって行動は変わる。
あるものがないだけで、世界は大きく変わってしまう。
「……何も覚えていないなんて酷過ぎるだろ。もしそうなら、お前は自分の知らない奴を助けちまったことになるんだ」
「……」
黙ったままガクは何も言わない。
当然の反応だろう。俺自身が勝手に言った自分の考えを強引に押し付けられているんだから。
「それでもお前は嬉しいか。自分を知らない、自分の好きな人が助かっているのが。救われているのが」
俺はずるをしていた。怖くてガクの顔が見られなかった。必死に目を逸らした。さっきの、人間とAIのことみたいに。
「嬉しいよ」
ガクはしっかりと断言していた。
だが次の瞬間発せられた声は、あまりにもか細かった。
「嬉しいよ……とっても嬉しい。はずなのに……なのに、そんなの嫌だって思っている僕が確かにいるんだ……何故、どうして?」
「やっぱお前は人間だよ」
ガクが短く疑問の声を上げた。それに続くように答えるように、俺は言う。
「どこかで見返りを求めるのが人間だ。でもAIはそうじゃないだろ? 自分のパートナーのためだけに、見返りなんていりませんよって必死に動く。それがAI」
そんな、と呟いて泣いていた。女の子みたいだと思った。
悲痛な声を聞いていられなくて、俺は言う。
「でもそれでいいんだよ」
泣き声が微かに弱まった。
「それが人間の不完全なところで、魅力だから。そしてガクはAIに染まりきってはいない。俺はそれでいいと思う。それに」
付け加えるように、一番言いたかったことを呟いた。
「一方的な気持ちは苦しいくらいに一途だから、何かしらの形で相手に強く残る。忘れられないくらいにね」
「強く残る……?」
「そ。だから絶対にガクのことをそいつは絶対覚えてる。いつか逢えたらちゃんと仲良く出来るよ。他人なんかじゃなく、友達として、もしかしたらそれ以上にもなれるかもしれないし」
俺が明るく言うと、ガクは真っ赤な目を向けつつも微かに笑ってくれた。それは恐ろしさを感じるくらい魅力的で。
――コイツに好かれるとか、羨ましいな……いや待て、何故俺が羨むんだ相手は男だぞ、よくよく考えれば可愛いとかいうのもおかしいだろ。まあ考えなくても分かるけど。ヤバイ俺、道踏み外すなよ!
シリアスな気持ちがどこかへ吹っ飛んだ。場外ホームラン。
ガクは目元を拭い数回まばたきをした。と、いつの間にか彼の顔は普通の『無』へ戻っていた。先程までのガクが嘘のように。
すると何を思ったかベッドに腰掛けていたガクは身をひねり、ベッドの右端にいる俺のところへ近づくと――背中合わせの形で寝転んでしまったのだ。
俺とガクを隔てるものは薄いブランケット一枚のみ。
間接的に触れ合う背中から、彼の脈動と熱を……ヤバイ理性しっかりしろ。気が狂いそうだ。落ち着くんだ俺。相手は男……相手は男……女でも大問題だけどな!
「が、ガクさん? もしもしどどどうしたんですか?」
どうにか言葉らしくない言葉を発すると、彼はいつもの堅苦しい口調で淡々と喋る。
「疲れたので寝ます」
「ここで寝るなよ!」
「ならば床で寝れば宜しいでしょうか」
「……やっぱりここで寝ろ」
俺の負け。床で寝ろとかどんな鬼畜だ。
諦めてからしばらくして微かな吐息が聞こえ出す。恐る恐る顔を出してみれば、隣にはガクが気持ちよさそうに眠っていた。
コイツの大切な人。ガクはその人を救う為だけに人間として生きることを止めて、AIとして生きる道を選んだ。しかし彼の失われた時間よりも大切なその人は、未だに姿を表そうとはしていないようだ。

 
一人の少年は、自分を犠牲にしてまで大切な人を助けた。
しかし二人の少女は、どこか諦めを持って大切な人と接し続けている。

 
ガクはだから必死になっていたのだろうか。自分はここまでしたのにアデフィー達はしなかった。どうして、あなた達の大切な人の価値はそんなものなのか、って。
――俺に何が出来るのだろう。深い悲しみなんて経験したことのない、幸せ者の俺に一体何が出来る。
何にせよガクが寝ている今のうちに逃げるしかない。……これ以上ここにいると色々おかしくなりそうだ。
俺はベッドから抜け出し、部屋をそろりそろりと歩き扉を開いた。
そこに一人、人間が立っていた。
「お前……何で」
「何よその反応、失礼ね」
拒絶反応を起こす前に腕を引っ張られ、廊下へ放り出される。あまりの強引さにバランスを崩して地面に倒れ込んでしまう。相手との差、およそ5m。
扉が閉まり自動ロックが掛かる。これで必ずガクは守られる。その事実に少し安心しつつ、俺は突然こんなことをした迷惑極まりない人間の顔を仰いだ。
「手伝ってほしいのよ」
金色の双眸が、俺を捉えていた。

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